鴇田智哉さんの俳句に関する仮説

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前回、私が俳句について考えていることを説明するために「言語ネットワーク空間」というものについて定義づけを行ないました。

今回は、この「言語ネットワーク空間」説を用いて、鴇田智哉さんの俳句について仮説を立ててみたいと思います。先日のトークイベントでは示唆に富む発言が多々ありましたが、それらについても併せて説明してみるつもりです。

今回の仮説のキーワードは、鴇田さんが話されていた「言葉の分解」です。

 


「言葉の分解」が意味するものは何か。

おそらく、一般的には単体でノードとなるべき単語が、より細かな要素に分解されることによって、その単語全体が中心を持たない言語サブネットワーク空間として機能していることを示していると思われる。

ひとつの単語の概念空間内にさらに粒度の小さい単語ノード群が存在し、それらが個々に概念空間内外のノードとリンクを形成することで、全体としての言語ネットワーク空間の構造がより複雑かつ高密度になっているものと考えられる。さらに、概念空間内の単語ノードは他の単語の概念空間ともリンクしている可能性があり、単語の概念空間が通常より複雑に重なり合った「言語的共感覚」が起きているのではないかと推察される。

しかしこの場合、ひとつの単語を構成する言語サブネットワーク空間に対して何等かのラべリングを行なう必要がある(そうでないと、高次の単語を認識することができない)。おそらく、「言葉の分解」によって形成された言語ネットワーク空間(仮に「俳句的言語ネットワーク空間」と呼ぶ)は一般的な言語ネットワーク空間と別個に存在していて、一般的言語ネットワーク空間が俳句的言語ネットワーク空間に対して一種のインデックスとして機能しているのではないかと思われる。要するに、一般的言語ネットワーク空間は俳句的言語ネットワークの写像としても機能していることになる。

一般的言語ネットワーク空間と俳句的言語ネットワーク空間がこのような関係にあると仮定した場合、俳句的言語ネットワーク空間内で概念ネットワークを構成する(=「句を作る」)と、その写像となる一般的言語ネットワーク空間にはそのリンク構造とは無関係な像が結ばれることになる。この像の表出こそが鴇田さんの俳句なのである。鴇田さんは常々「自分の俳句は写生である」と述べているが、この「写生」は俳句的言語ネットワーク空間内で行なわれているものだと考えられる。

第一句集『こゑふたつ』に収録されている作品は一般的な理解が可能なものが比較的多かったが、第二句集『凧と円柱』では、より抽象性の高い作品が多くなっている。だが、これは一般的に言われる「抽象」とは異なり、俳句的言語ネットワーク空間の構造の複雑化によって写像の現れ方が変化してきた結果だと思われる。最たる例は『凧と円柱』の最後の句「7は今ひらくか波の糸つらなる」で、完全に一般的言語ネットワーク空間のリンク構造から乖離している。また、この句には季語がない。これは意識的に季語を無くしたのではなく、俳句的言語ネットワーク空間からの写像に忠実に従った結果、季語という写像が現れなくなったためと考えられる。『凧と円柱』には他にも無季の句が収録されているが、これらも同様の理由で必然的にそうなったと見るべきだろう。今の鴇田さんにとって、季語という単語群はむしろ写像を歪める存在になりつつあるのかもしれない。


 

……といったところなのですが、いかがでしょうか。

今日は時間切れなのでこの辺で指を止めますが、語りたいことはまだまだあります。鴇田さんが話されていたその他の話題については結局今日は書けませんでしたし、また件のトークイベントに出演されていた田島健一さんと宮本佳世乃さんについて、この「言語ネットワーク空間」説を当てはめたらどうなるのか、といったことも考えています。自分でも推論がまだ甘いので記事にするには時間がかかりますが、追々書き進めていきたいと思います。

それでは、また。

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