会社からの帰り道で句を練っていたところ、ふと「確変」という言葉を使ってみたくなりました。それから順調に思考がまとまって一句出来たのですが、そこでふと思ったのです。
この俳句、「確変」という言葉を知らない人には全然響かないだろうなぁ、と。
ちなみに、「確変」というのは「確率変動」という言葉の略称です。私も確変について細かいことはよく知らないので、詳しくはWikipediaの記事をご覧下さい。
で、略称についてですが。俳句は言うまでもなく非常に短い詩型ですから、言葉のひとつひとつの要素が全体のイメージに大きな影響を及ぼします。そうした場合、その句の中で相手に理解されない言葉があった時、その句は作者が思い描いたイメージを伝えきることができなくなってしまいます。先ほど私が作った句も「確変」という言葉のイメージがポイントになっているのですが、そこで「確変って何?」と問われてしまうと、もはやこの句は死んだも同然、一気に白けてしまうのです。
もしもそういうことがあったらどうしようか、と想像して検討した結果、この句は公にはできないな、と思うに至りました。気心の知れた仲間内の句会でだったら出してもいいかもしれませんが、(万一そういう機会があったとしたら)総合誌のような大きな場所に出すべき句ではない、と。
時折、俳句の中で略語や略称を使うことに抵抗を感じるという方に出会うことがありますが、もしかすると上記のような事態を避けるためにそういう姿勢を取っているのかな、と若干納得をした次第です。
が、ここで例の「コンビニ」論争のことを思い出して、少し陰鬱な気分になってしまいました。
今さら話を蒸し返すのも何なので、あまり細かく突っ込むのはやめておきますが、私のスタンスとしてはコンビニは俳句の中でも「コンビニ」でいいと思っています。これだけ生活に密着した存在を現代の俳句で詠むのはもはや不可避のことであって、それを「コンビニエンスストア」と10音で使わなければダメ、となってしまったら、コンビニを題材にした俳句の表現は著しく制限されてしまうことになります。それはあまりにもったいないと思うのです。
件の「コンビニ」論争の発端となった、神野紗希さんの「コンビニのおでんが好きで星きれい」は現代における秀句だと思います。今後もコンビニを題材とした優れた句が生まれる可能性を残すためにも、コンビニは「コンビニ」でいいんじゃないでしょうか。「テレビ」という言葉だって、元をただせば「テレビジョン」の略称なのですし、今どきテレビをテレビジョンと呼ばなきゃダメ、という人はいないと思うんです。所詮は歳月の問題なのですから。
そういうわけで、私は今後コンビニを「コンビニ」と呼ぶ俳句を積極的に作っていきたいと思っています。
……ああ、結局蒸し返してしまいました。おしまい。