相方と一緒に、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されている展覧会「薔薇空間」に行ってきました。
相方が前々から見に行きたいと言っていたので、今回の私はそのお供ということで。
フランス王室の宮廷画家ルドゥーテが描いた作品を中心に、バラのボタニカル・アート(植物画)が約250点も並んだ、バラ尽くしの展覧会。本物のバラでさえ一度にこんなにたくさん見たことはなかったので、何というか、圧倒されました。
特にルドゥーテの作品は、とても人間業とは思えないほど精密を極めたリアルな描写で、執念すら感じられるその技巧を見ているだけで頭がくらくらしてくる始末。椅子に座って休み休みしながら見ていったんですけど、最後はもう「すいません、もうお腹いっぱいです」って感じでした。いやほんと、綺麗とかそういうのを通り越して、凄かったです。
見ていて興味深かったのは、ルドゥーテのバラは単にバラを精密に描いただけではないんだ、ってところですね。
写真を撮るようにバラを見たまんま再現するだけではなくて、葉の位置とか枝の角度とか花の向く方向とか、構図に工夫を加えることによって、テーマ性を加えてるんです。その辺が、単なる博物学的な植物画としてだけではない芸術的な雰囲気を醸しだしているんでしょうね。俳句で言うと「客観写生」に近いんだけど、主観も交えた写生になってる、といった感じでしょうか。
その点、同時に展示されていたアルフレッド・パーソンズのバラは本当に「見たまんま」を無表情に描写していて、リアルといえばリアルなんだけど、何となくのっぺりとした印象がありました。俳句で言えば「客観写生」ではなく「ただごと」という感じ。絵画として鑑賞するなら、やっぱりルドゥーテの作品の方が面白いです。
ついでに言うと、二口善雄の作品はルドゥーテやパーソンズに比べると精密さという点では劣るものの、見る者が想像で補う「余白」を残すことで、見る者の頭にリアルな映像を結ばせることに成功しているようでした。この辺の「余白」の使い方は、ちょっと日本画的な感じがしますね。
鑑賞する者の想像にゆだねることで描いたこと以上の世界を展開させる、という技法はそれこそ俳句にも共通するものであって、「日本人の芸術的な感覚ってのは、やっぱりそういう風にできてるのかなぁ」とか、いろいろ考えてしまいました。
……バラの絵の展覧会に行って、考えることは結局俳句かよ(笑)>自分
一度に250点もの作品を見るのはさすがに疲れましたけど、良いものが見られてよかったです。
ちゃんとした芸術を見るってのは、知見を拡げるという意味でも大事なことですね。
これからも、こういった展覧会とかはチェックしていこうと思います。
貴婦人の吐息ルドゥーテの薔薇の園 独楽
おはようございます。
>椅子に座って休み休みしながら見ていった
よくわかります。
絵も俳句も、具象→抽象→具象→抽象・・・・。
って見ていかないと疲れる。
>バラの絵の展覧会に行って、考えることは結局俳句かよ
偉い!!!!
そうこなくっちゃ(笑)
貴婦人の吐息ルドゥーテの薔薇の園 独楽
上手いなー。
時々「美術館吟行」ってやるんだけど、ようするに絵を見てイメージを俳句にするっていうやつ。
そしたらこの句は特選だな。
ただ、「ルドゥーテ」と伸ばすより、「ルドゥテ」とした方が
リズムがでるでしょう。
こんばんは。
展覧会もそうですけど、俳句的な考え方というのは世の中いろんなところに共通するものが
ありますね。
そういうのを見聞きするたびに「ああ、これは俳句でいうこれこれこうなんだな」と考える
ようになってきています。
染まってきたなー、自分(笑)
>ルドゥーテ
「薔薇空間」では「ルドゥーテ」と表記されていたのでそれにこだわってしまったんですが、
調べてみたら「ルドゥテ」と表記する場合もままあるみたいですね。
たしかに「ルドゥテ」の方が語調が良いので、他に出す機会があったらこちらに直しておき
たいと思います。ありがとうございました。