饒舌な俳句はいけませんか?

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かの文豪アーネスト・ヘミングウェイが作ったという、わずか6つの単語からなる小説があります。それは、

“For sale: baby shoes, never worn.”

というものです。和訳すれば「売ります:赤ちゃんの靴、未使用」となります。(詳しくはこちらの記事を参照のこと)

このわずかな言葉の中には様々な背景が折り畳まれていて、それらを想像力で展開していくとどんどん世界が広がっていきます。私はこういう、わずかな言葉で読み手の想像を掻き立てる仕掛けが大好きなのです。

先の”小説”を俳句風に書くなら(無季ですが)「履かれざる赤子の靴を売りにけり」とでもなるでしょう。もし、こういう句が句会などで出てきたら、皆さんはどう思われるでしょうか。

というのも、先日出席した句会で、私が次のような句を出したからです。

合鍵や今日もおでんの終わらざる

幸 いなことにこの句にはいくつか点が入りまして、採ってくれた方は「合鍵」を手がかりにいろいろなことを想像して下さいました。私としては狙い通りでしてやったりな気分 だったのですが、その一方で「俳句にこんなに内容を詰め込まなくてもいいのではないか」という評もあって、そういうものかなぁ、と思ったりもしたものでした。

たしかに、言われてみるとここまで背景を折り込んだ「濃い」句は普段あまり目にしないような気がします(私が不勉強過ぎ?)。写生句にしても心象句にしても、主流となっている作品はもう少しあっさりしたイメージで構成されていて、掲句のようなドラマ性を持ったものは少ないようです。とすると、私が好きな「濃い」、いわば饒舌な句は俳句世間ではあまり歓迎されないのかなぁ、と思って少し不安になった……というのがこの記事を書いた理由です。

もうひとつ、私の句で非常にお気に入りの饒舌なものがあります。

サイネリアそこは折られし羽の痕

これも、公表した当時はいまいち受けなかったんですよね。なんかこう、悔しいのですが。どうなんでしょう(と、どこへともなくつぶやいてみて暗転)。

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