というわけで、前記事から関連して、佐藤文香さんの『君に目があり見開かれ』を読んでの私なりの感想を述べてみたいと思います。
まず、「オルガン」の座談会でもキーポイントとなっていた、表紙にある「レンアイ句集」という言葉。オルガンの4人はこの「レンアイ」を「(人間同士における)恋愛」というスタンスで語っていましたが、私はそれとは違う捉え方をしました。
実を言うと、私は当初この「レンアイ」をやはり「恋愛」という意味に受け取ってしまい、「そんなベタベタした句集は読みたくないなぁ」としばらく敬遠していたのです。ですが、いざ読んでみたら、はっきりと恋愛に関わると思われる句はそれほど多くない、というかむしろ少ないと言ってもいい。表紙に大書 された「君」を詠んだ句も、決して多いわけでもない。これは、何か普通に言う「恋愛」とは違うな、と思ったのです。
そして、「干草や笑つておけば愉快な日」 という句を読んだ時に、ああこれは、と思いました。この句は一見単に愛想笑いのことを言っているのだと捉えられますが、私は「別に笑わなくてもいいんだけ ど、笑っておけば周りと同じ愉快な場所にいられるから笑うんだ」という、寂しく不器用な感情が込められているとのだと解釈しました。そう感じた時、この 「レンアイ」という言葉は、作者が自分以外の世界に対して抱いている思慕の念なのではないか、と思ったのです。だから「恋愛」ではなく「レンアイ」なのだ と。
そう思ってこの句集を読み返してみると、まるで作者から(人間関係も含めた)自分の外の世界に対するラブコールのように感じられてきました。なるほど、これは「レンアイ句集」なのだなぁ、と勝手に納得した次第です。
さて、この『君に目があり見開かれ』には、もうひとつ謎があります。それは、一人称についてです。
普通であれば、作者自身を指す一人称はひとつに統一されているものだと思うのですが、この句集に現れる一人称は「わたし」「ぼく」「我」「吾」と4種類もあります。語調やリズムを整えるために言い換えているという部分もあるのかもしれませんが、私にはどうしてもこの点が引っかかりました。で、そこで思い出したのが、佐藤さんが制作協力しているコミック『ぼくらの17-ON!』の3巻に出てくる安芸トモロウというキャラクター。彼は通常では自分を「僕」とよんでいますが、内面で何かが切り替わったときには「俺」という一人称を使うのです。どちらが演技というわけではないようなのですが、何かのルールで使い分けているのは間違いなさそうです。
まあ、これとそれと本当に関係があるのかはわかりませんが、もしかしたら作者も状況によって(表に出さなくても)一人称を使い分けることがあるのかな、と少し思ったりもしました。さらには、キーワードのひとつである「君」も、作者にとっては一人称のひとつであるのかも、とか思ったり思わなかったり。
実は他にも気にかかる点があるのですが(「牛」とか「葉桜」とか)、そこはあえてスルーして、最後は好きな句を列記して終わりにします。
手紙即愛の時代の燕かな
紫陽花は萼でそれらは言葉なり
夜を水のように君とは遊ぶ仲
知らない町の吹雪のなかは知っている
君になづな持たせマリンバうすく連打
風はもう冷たくない乾いてもいない
木ずらつとそこが朧で夜を呼べる
紫陽花や心は都営バスに似て
海岸や墓石色の君のシャツ
電球や柿むくときに声が出て
かさぶたになるまへは輝いてゐた
ほほゑんでいると千鳥は行ってしまふ
今日の手をあつめてすすぐ月の庭
焼林檎ゆつくりと落ち込んでゆく
冬木立しんじれば日のやはらかさ
月は春かつての最寄駅に降りず
春の夕日は君の眉間を裏から突く
たんぽぽを活けて一部屋だけの家
春や新聞わるい油をよく吸ふね
冬の竹輪に春の胡瓜を入れて切る
夏の林檎切られ冷たく三角で
干草や笑つておけば愉快な日
雪晴やビールの飲める喫茶店
以上。