前回、私が俳句について考えていることを説明するために「言語ネットワーク空間」というものについて定義づけを行ないました。
今回は、この「言語ネットワーク空間」説を用いて、鴇田智哉さんの俳句について仮説を立ててみたいと思います。先日のトークイベントでは示唆に富む発言が多々ありましたが、それらについても併せて説明してみるつもりです。
今回の仮説のキーワードは、鴇田さんが話されていた「言葉の分解」です。
前回、私が俳句について考えていることを説明するために「言語ネットワーク空間」というものについて定義づけを行ないました。
今回は、この「言語ネットワーク空間」説を用いて、鴇田智哉さんの俳句について仮説を立ててみたいと思います。先日のトークイベントでは示唆に富む発言が多々ありましたが、それらについても併せて説明してみるつもりです。
今回の仮説のキーワードは、鴇田さんが話されていた「言葉の分解」です。
先週の土曜日(12月13日)、下北沢で開催された「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ 『凧と円柱』刊行記念」というトークイベントを観に行きました。青木亮人さん、鴇田智哉さん、田島健一さん、宮本佳世乃さんという錚々たるメンバーが揃い、鴇田さんの句集『凧と円柱』の話題をメインに俳句のいろいろについて語り合う、というイベントでした。詳しくはこちらをご参照下さい。
で、このトークの内容というのが実に興味深いものでして、特に『凧と円柱』についての話は、私が俳句について日頃考えていることを明確に立証してくれたので、目から鱗がぼろぼろと落ちていくような思いで聴いていました。
じゃあ、「私が俳句について日頃考えていること」って何よ、となるわけですが、これを説明しようとしたところ、実はかなり細かな定義づけから始めなければならないことに気がつきまして。こんな荒唐無稽な話、誰にもわかってもらえないんじゃなかろうかと思いつつも、どうにか文章にまとめてみた次第です。
以下、件のトークイベントで得られた収穫について語るためにはどうしても必要な、長ったらしい「前書き」です。文系ではない頭で作った話なので、突っ込みどころ満載だと思われますが、もしご興味がおありでしたらご覧下さい。面白くなかったらごめんなさい。
またひとつ歳をとってしまいました。さらばアラフォー(遠い目)
それはさておき。
先日、菅原文太さんがお亡くなりになりました。「仁義なき戦い」シリーズの大ファンである私としましても、実に残念であります。改めて哀悼の意を表する次第です。
というわけで、追悼の意味も込めまして、「仁義なき戦い」で20句、参ります。
仁義なき戦い時に落葉焚く
焼芋屋相打つ仁義なき戦い
闇汁の仁義なき戦いの闇
仁義なき戦い終えて山眠る
仁義なき戦い赤きちゃんちゃんこ
寒紅を引いて仁義なき戦い
冬薔薇胸に仁義なき戦い
聖夜劇暗転仁義なき戦い
仁義なき戦い告ぐる冬の雷
雪掻きを巡る仁義なき戦い
仁義なき戦いという帰り花
仁義なき戦いやがて白鳥に
寒牡丹散るや仁義なき戦い
血煙に咳く仁義なき戦い
しぐるるや捨て犬の仁義なき戦い
熊眠る山の仁義なき戦い
仁義なき戦いと化す年の市
仁義なき戦いとして社会鍋
仁義なき戦いきっかけは海鼠
仁義なき戦いそして餅搗きへ
一句でも受けて頂ければ幸い。
先日病院に行った時、待ち時間がけっこうあったのでまた俳句を練ることにしました。
お題は「凩(こがらし)」。
私は、小学生(中学生?)の時に教科書で読んだ「海に出て木枯帰るところなし 山口誓子」をきっかけに俳句を始めたので、凩という季語にはちょっとコンプレックスじみたものを感じているのです。そのせいか、未だに凩でいい句をものにできていません。そういう意味で、今回のお題はある意味挑戦でした。
今週は仕事が忙しすぎてあまり推敲とかできなかったので、あまり自信はありませんが。
順番を待って午後五時の凩
凩の終着駅に一人きり
凩の途方に暮るる無人駅
諦めて木枯らし窓を揺らしけり
木枯らしや腕奪われしヴィーナス像
地下街に凩果つる爪の跡
事実上木枯らしとして暮らしおり
お粗末さまでした。
すでに日付が変わってしまいましたが、昨日は三島由紀夫忌だったそうで。
というわけで、性懲りもなく三島忌で作ってみました。
三島忌の地球に雨の降りしきる
つぶやきが海を越えたる三島の忌
三島忌やスマートフォンという奈落
三島忌に星を掲ぐる聖樹かな
ローストビーフ切れば肉汁三島の忌
三島忌やヘイトスピーチ鳴り止まず
ひとが皆神と成り果て三島の忌
おやすみなさい。
特にこれといった理由はないのですが、「麻雀」を読み込みでどれくらい句を作れるか、練習がてら試してみました。
麻雀の四人揃いし枯野かな
麻雀を終えたる朝の根深汁
麻雀卓囲む狐の顔をして
麻雀の向かいに座る狸かな
蜜柑剥く一人足らざる麻雀卓
あかぎれの手でかき混ぜる麻雀牌
麻雀牌掴み寒夜に沈みけり
勝者なき冬暁の麻雀荘
バリエーションをつけるのが難しかったですが、今の力ではこんなもんですかね。
理屈先行で作ってるところが、まだまだかなと感じています。
もっとイメージの組み合わせというものを意識しないといかんです。
今日……というか、日付的には昨日になってますが、二十四節気の「小雪(しょうせつ)」だそうで。
とはいえ、マイナーな存在ゆえかあまりこれといったイメージがありません。
ぶっちゃけ、俳句にするには難しい、というか手応えのない季語です。
TwitterのTLに流れる句を見ても、残り12音でどれだけうまいことを言うかという大喜利状態になっている様子。
だからというわけでもないのですが、私もちょっと気張って作ってみました。
まあ、勉強中の身なので例によって出来の悪さはご勘弁を。
小雪の空の寂しき青さかな
小雪の街を憂いの直方体
小雪に打ち捨てられし天球儀
うたた寝をして小雪の終わりけり
小雪と知りて下着を替えにけり
通り過ぐ小雪という一里塚
小雪や残り時間の知らざりき
行き先の無く小雪の難破船
小雪や朽ちゆくものに花束を
お粗末様でした。
昨日TwitterのTLで鯨の句を見かけたので、今回は「鯨」で作ってみました。
人という幼きけもの鯨舞う
鯨見て帰りし人の眼かな
耳をすます鯨の夢を見し夜は
溜息をついて鯨の去りにけり
休日の鯨は空を夢見たり
時あらば鯨の星に生まれたし
んー、ちょっと無理してる感がありますが、まあ現状はこんなところで。
なかなか上手くならないなぁ。
昨日帰り道で歩きながら考えたことを徒然とメモ。あくまで私的な考えなので、反論等はご容赦下さい。また、バージョンアップによって内容が変化することがあります。今回は初回ですからVer.0.1ということで。
1.俳句は複数のイメージの有機的な相互作用でできている。有季であれば、そのうちのひとつが季語によるものである。
2.言葉は単独でイメージを構築することもできるし、複数の言葉の組み合わせによって形成されるイメージもある。
3.俳句は、ひとつだけでもオリジナルなイメージがあれば充分成立しうる。
4.オリジナルなイメージができれば、それとの距離感によって自ずと季語は決まる。
5.季語と言葉の組み合わせによってオリジナルなイメージを形成することもできる。
6.俳句的な着眼点(ミクロ、マクロ、etc.)によってオリジナルなイメージを形成できる場合もある。
7.いわゆる「ただごと」は、イメージとして脆弱である。よって、「ただごと+季語」による句はよほどのことが無い限り、俳句として脆弱なものとなる。
うーん、今日はとりあえずこんなものかな。いい加減寝ないといけないので。また考えがまとまったらバージョンアップさせます。
どうにも自分の作る句が、面白くないのです。
昨夜散々考えて作ったはずの句が、朝になってみるとどれもつまらない。何が良くないのだろう、と考えた出勤時。
とりあえずの結論として得られたのは、写生を考えるあまり世界の奥行きや広がりが失われている、ということ。言葉的にも、意味的にも、空間的にも。
いや、もちろん写生だけでも奥行きや広がりを感じさせることはできるんでしょうけど、私はまだそこまでの技量を持っていません。多分、俳句の経験値が足りないのだと思います。
ならば、経験値が少ないなら少ないなりに、できるだけ「飛んで」みようと。そう思って、帰り道に作ってみました。
水涸れて乗客各位潰し合う
敗荷や舌で弄る口内炎
短日を惜しみてダウンロードせり
歌舞伎町狐を狩るか狩らるるか
センター街歩む海鼠のふりをして
揚々と朝三暮四の冬の鵙
冬青空敗者は昼食を奢れ
……これでもがんばった方なのですが(恥)。