7年間の鉄道誌投稿での逸話をご紹介。
それは、忘れもしない、1994 年は 3 月 31 日の出来事でした。
K 社の総務を訪れた、営業の人と見知らぬ男の方二人。
「あのー、僕達『鉄道ダイヤ情報』編集部の者なんですけど」
「あー、いつもお世話になっております」
「失礼ですが……」
「?」
「――下の名前、何ていいます?」
発端は、問題の投稿その 1(鉄道ダイヤ情報 1994 年 3 月号掲載)。
↑で私の職場を訪れたのは、(太)氏と(杉)氏だったのですが、(太)氏曰く、「『新宮智子』って本当に本名? 紀勢本線の新宮駅に、那智の滝の智子じゃ出来過ぎだよ」(筆者傍白:本当に本名で偶然の一致です。そこから派生したのが「新宮那智」の変名( 1 文字しか違わない;)。最初から気付いていたら、わざわざ「幾春別弥生」なんて名乗らなかったかも)
問題の投稿その 2(鉄道ダイヤ情報 1994 年 5 月号掲載)で、事態は一気に動き出しました。
(太)氏:「茗荷谷勤務って、もしかして K 社じゃないのか!?」(筆者傍白:物凄く飛躍した勘だと思った。他の E 社とか O 社とか考えなかったのだろうか? 結果的に正解だった訳だが……)
そして決定的だったのが、K 社が当時、鉄道ダイヤ情報を印刷しており、出張校正室にあったコピー機付近で、(太)氏や(杉)氏とニアミスを起こしたということ。「『新宮』って名札が歩いてるよ!!」
その後、(太)氏と(杉)氏は担当営業の人にこう頼み込んだそうで>「総務に連れて行って下さい! 凄く気になる女の子がいるんです!!」(筆者傍白:(^▽^;))
(太)氏:「人違いだったら逃げよう」
(杉)氏:「いや、間違いない。鉄の勘だ!!」
ここで話が冒頭に戻ります。
「――下の名前、何ていいます?」
「智子ですけど」
「ああ、良かったあ……」
その後すぐに鉄道談義で意気投合、翌日にはまだ咲かぬ桜の下で、お酒を酌み交わしていたのでした。
――それが、以後 7 年間にわたって鉄道雑誌(といっても鉄道ダイヤ情報と鉄道ジャーナルだけですが)を席巻した(というほどのものか?)、“最初の鉄子” の萌芽でした。
※実際、ダイヤ情報の方が別の鉄道雑誌の人に訊かれたそうです、「『新宮智子』って、本当に実在するんですか!?」と。あそこまで派手に鉄道雑誌の投稿欄を荒らし回る女性は、おそらく過去に例を見なかったため、(編集部の人間が女に成りすまして書いているのでは?)と疑われていたらしい……
「鉄道ダイヤ情報」さんでは、思う存分「暴れさせて」頂きました。担当者様が代替わりする度にノリが激変して、合わせるのには一苦労しましたが、どんな風変わりなアプローチをしても、最終的に掲載して頂けたネタは数多くあります。これが「投稿欄が投稿/投稿者を育てる」という好例だと思いました。
また、「女性鉄道ファン=『鉄子』」という言葉を発明したのは、一般的には「鉄子の旅」とされていますが、これは「鉄道ダイヤ情報」内の女性専用コーナー(!)「鉄子の部屋」が先発だったと記憶しております。
一方、「鉄道ジャーナル」さんには、ビシバシ「鍛えて」頂きました。……私がジャーナル向きの投稿者でなかったのは明らかであり、掲載時にも自分の所だけ変にウェットな色がついていて、プカプカと浮きまくっていましたが、特筆すべきは当時のご担当者・S 氏によるリライトのセンス。原文を「1. 論理性に徹して 2. なおかつ日本語として正しく 3. そして最小限の字数で」書き換えられた “上位バージョン” は、もちろん私本来のキャラクターとは違いましたけれど、そこには一分の隙もなく、背筋に震えが走るほど美しかった……!! 「ここをこうすればもっと良くなるんだよ!」といわんばかりの “指導” には、剣道の稽古にも似た清々しささえ感じたものでした(って、自分は剣道やったことありませんが(_ _;)ゞ)。
それと、「単なる “批評” や “感想文” にとどまることなく、建設的な代案の『提言』を!」という “「鉄道ジャーナル」イズム” は、その後の投稿の大きな糧となりました。
もう一昔以上(下手すると二昔)前の話になりますが、歴代ご担当者の皆様方、大変お世話になりましたm(_ _)m