ずっと、夢見てきた――モニターの向こうに生きてみたいと。CD という形で切り取られた、ゲーム世界の欠片だけを聴く事を、もう8年ばかり続けてきた。私なんかに、ゲームができる訳ないじゃないか、やれるだけの腕がないんだから。モニターの向こうに手を延ばそうとしても、ブラウン管に突き指をするのが関の山だ。そんな風に半ば諦めながらも、胸を焦がして止まぬ想い、異界への憧れ。
 
 そのモニターの向こうへ――。
 
 1枚のCD が、惰性に流されて飛べないでいた、私の生き方を大きく変えた。「レイフォース」。元々タイトーの音楽は好きだったので、何の気なしにチェックしたのだが……今だかつてなく充実したライナーの、オリジナルストーリーと設定資料は、モニターの向こうに拡がる広大な世界に、私を引き付けるに十二分なものだった。「高速で過ぎてゆく星がまるで水晶のように輝いて、そして、」そして、どうなった……? それが知りたくて、弟にゲームをプレイして見せてもらった。――凄かった。ロックオンレーザーはこの上なく美しかった。演出に度肝を抜かれまくった。それから、最後は――。
 
 自分にはゲームを見る事しかできないと思っていた、それだけで充分だとも。ところがそれ以来、レイフォースの CD は更に私のイマジネーションを刺激するものになってしまった。「彼女」――ゲームではデモ画面にのみ登場する、ライナーにおいては闇を愛し、自我の存在に疑問を抱いていた「彼女」は、あの戦いのさなかで、何を思っていたのだろうか……? もはや CD を聴くだけでは掴み取れない、プレイしてみなければ決して解らない何かがある。
 
 それでも未知への恐怖故に手が出せず、ゲーセンでデモを眺めていただけの私は、ある日、「彼女」の声を聞いた。スロットルレバーのスイッチを押す瞬間の、「くっ!」という息遣いと、「彼女」の意思とを。ドキッ!! と心臓が跳ねる程の衝撃だった。モニターに魅入られたまま、明瞭に認識した。「彼女」は確かに存在している、腕とは関わりなしに、ワンコインあれば触れる事のできる、そのモニターの向こうに!
 
 「彼女」に近付いてみよう、このゲームをやり込んでみようと、その時決意した。
 
 実は私は、この年になるまで、ゲームを全くといっていいほどプレイしていなかった。具体的に言おう、ファミコンのゴルフを少しかじって、ドラクエのⅠをクリアしただけ。アーケードに至っては、ガイアポリスに1コイン入れてみて、1画面で死んだのがただ一度の例外だ。当然シューティングの経験は皆無である。全くの素人に、一体何ができる!? 不安が募る。あっという間に終わるのがオチじゃないのか。しかし、とにかくやってみなければ何も始まらないのだ。
 
 そうやって自分を納得させても、初心者がゲーセンに入るという事には、かなりの勇気が要求される。世間一般の通念からすると、ゲーセンに行く事は、決して歓迎される行為とは、いえない――みんなどうやって、そのハードルを越えてきたんだろう。「面白いんだから別にいーじゃん」と、軽々とクリアする人もいるだろう。しかし、ゲームに少なからぬ金額を費やす弟を馬鹿にさえしてきた、優等生的な価値観を持つ私にとって、それはとてつもなく高いハードルだった。ゲームは悪いものに決まってるじゃないか――でもよく考えろ、時間やお金を費やす点において、他の趣味と何か違う所があるか? ゲームが悪であるという理由などどこにもない。私は今まで世間の偏見を、何も考えずに鵜呑みにしてきたんだ……。
 
 また、ゲーセンに女性が少ないという点については、女性鉄道ファンをやってきた私にとって、今さら恐れる事など何もなかった(鉄道ファンの男女比=約350対1に比べれば、ゲーセンのそれははるかにマシなはずである)が、ちゃんとゲームのできる人が行く所、という一種排他的な雰囲気には、やはり戸惑った。どうか私を見ないで下さい、あまりにも下手クソですから、すぐ終わって帰りますから――。
 
 これらを乗り越えるのは、幾重にも巻かれた鋼の鎖を、腕に血を滲ませながら引き千切るような作業だった。それを可能にしたのは、レイフォースの魅力溢れる世界観と、それが触発した湧き上がる情熱――それは「重力(GRAVITY)」と呼べる程までに、絶対的な(FORCE)だった。
 
 インストとデモを見て大体の事は把握した(つもり)。INCERT COIN――レバーで自機を……って、やだ、全然思い通りに動かせない! ええええーっ、隕石が敵が弾がーっっ。それに左手でボタンを押したくてしょうがないのは何故ぇぇぇっ!? 訳の判らないうちに、1面の曲1周しないうちに全滅していた、それが初プレイだったと記憶している。……ああそうか、私は左利きだったんだ。そういえば、英語で左利きを意味する “LEFTHANDED” って単語には、「不器用な」という意味もあったね――。それでもプレイし続けて、左手はレバーを動かすもの、右手はボタンを押すもの、という役割を、体に叩き込んでいった。代々木で、渋谷で、池袋で、川崎で――。けれど、毎日通える所にレイフォースはなかった。休みのしかも出かけた時にしか、プレイできないこの状況は、やり込みと呼ぶには寒過ぎる。
 
 しかし、忘れもしない6月17日。その日は池袋で会社の飲み会があった。いつも通勤で歩いている茗荷谷の駅前を、実に珍しくタクシーで通り過ぎた。と……窓に残像を残しながら横切った、見覚えのある賑やかなパターン。――こんな所にゲーセンがある。完全に通勤経路の反対側にあったので、今まで存在自体を知らなかったのだ。
(もしかしたら、レイフォースがあるかもしれない)どうしても気になって、飲み会が跳ねた後、茗荷谷で途中下車した。――馬鹿みたいだ。こんな夜遅くに、疲れ切った体を引きずって。そんな都合のいい事が、そう簡単に、ある訳がないのに!
 
 それが、あった。
 
 そこに存在するのが当たり前のようにごく自然に、その筐体はたたずんでいた。さあ、思う存分やり込んで下さいとでもいうように。レイフォースは、私を待っていてくれていたのだ……こんなにも身近な所で――。帰途、駅に迎えに来てくれた、営団地下鉄丸ノ内線02系第31編成・5号車の窓から、天を仰いだ。
(私は――何て幸せなんだろう……!!)と。
 
 それ以来、私の会社帰りは、とても楽しいものになった。
 
 仕事が終わって、紺色の拘束衣(せいふく)を脱ぎ捨てると同時に、レイフォーサーの顔になる。鏡の中の私は、闇の彼方を見据える猫のような()をしている。
 (今日はどこまで行けるだろう?)両ひじがじんじんする程の緊張と高揚感を抱えて、ゲーセンへと向かう。左手には、コインを2枚握り締めて――1枚目は全力で戦うために。2枚目は少しでも先を見るために。1日でも長く、この店にレイフォースがありますように、という願いも込めて。
 
 光が収束されてゆく――闇の中で、ひと粒の雫が水面(みなも)に波紋を描くように、私はモニターの向こうに溶け込む。“PENETRATION” 作戦エリア-1 へ(BOUND FOR AREA 1)――。
 
 全方向360度の視界が私のフィールド。自機の動きに、判断も戦意も逡巡も、今の私の全てが反映される。CPUは容赦なく、こちらの隙を突いてくる。本当に一瞬の油断が死を招き入れる所、自分が普段、いかに甘い世界に生きているかという事を、嫌というほど思い知らされる……。アイテム以外は全部敵という恐怖とスリル、それと紙一重の、攻撃をかわして敵を破壊する快感。前に向かって、限りなくシャープに研ぎ澄まされてゆく感覚――!
 
 結果はどうあれ、戦いは終わる。電車のシートに座って、体の火照りを冷ましながら、その日のプレイを振り返る。スポーツとはまた違った、凝縮された爽快感――世の中にこの種の感覚があるというのも、27年生きてきて、初めて知った事だった。
 
 だが、私が楽しいだけの思いをしてきた訳では、無論、ない。始めたばかりの頃は「ボスまではまず死ぬ要素がない」はずの1面で死にまくった。隕石にぶつかる、敵に体当たりを食らう、弾に自分から飛び込む。……バカと呼んでくれて結構である。しかし、誰だって最初は立って歩くやり方や、1+1=2である事さえ知らなかったのだ。私はゲームに関して、そこから学ばなければならなかった。もっともそのおかげで、1面ボスに会えただけでも、「ここまでやれたんだよ!」という、逆説的な感動を味わえもしたのだが。
 
 1面を抜けるのにはそれほど苦労しなかったが、私にとっての壁は2面だった。中ボスは本気で弾をばらまく、砲台は正確に自機を狙う、上昇ロボットに弾を盛大にばらまかれてパニックになる、戦闘機や大型戦艦のホーミングの嵐、とどめに多種多様な攻撃を仕掛けてくるボス。1ヵ月以上2面を抜けられない日々が続いた。こんな所で詰まってしまうなんて……ああ、私はやっぱり、不器用な左利きでしかないのかもしれない――。速く走る事や、イラストを描く事のように、才能や素質がなくて諦めた事はいくらでもある、きっとゲームもその一つなんだ。でも諦めたくない、諦めたくないよ――レイフォース! ……そうだ、弾を避けて敵を倒せばいいだけの事、それがなせるかどうかは、純粋に私の腕一つにかかっている。何をどうしたらいいのか、解らない事とは違うのだ。逃げるな! やってもできるようにならない事と、努力すればできるはずなのにやろうとしない事を、一緒にしちゃいけない!!
 
 仕事に対する真剣さを更に超えた気合で、ひたすら食い下がった。画面全体を見て、弾や敵の軌跡を捕らえるゲーマーの目(それに映るものは、そのまま「彼女」の見ているものでもあるはずだ)を、瞬時に下した判断を、的確に自機の動きに反映させるゲーマーの手を、敵レーザーの予兆とBGMを聞き逃さないゲーマーの耳を、一欠片ずつ手に入れていった。プレイする度に、必ず何か学んで持って帰るようにした。10歩進んで9歩下がり、また6歩進むようなめちゃくちゃな経過をたどったが、到達距離の折れ線グラフは、全体としては確実に右へ上がっていった。これが「見切り」なんだ、「切り返し」はこうやるんだ、と体が覚えた時、2面を超える事ができた。
 
 いかに世界観の魅力が大きくても、ゲームそのものがつまらなかったら、多分そこまで続かなかった。システムがわかりやすかったから手を出したのだし、いきなり右手でのボタン連打を要求されたら、左利きの私はなすすべもなかっただろう。下手クソでもロックオンは文句なしに爽快だったから楽しめた。グラフィックや演出が良かったから、最高な音楽だったからプレイし続けられた。あらゆる面でそれが「レイフォース」というゲームだったからこそ、私は心底惚れ込めたのだ。
 
 ゲーマーは、一般に考えられている、根暗な現実逃避者などでは断じてない。彼らは架空の世界をも大切にできる、広い精神の幅を持った人々だ。高度に発達したイマジネーションは、1枚のデモ画面からでも、無限の物語を構築する事すら可能にする。小説、マンガ、映画……架空の物語を楽しむ方法は色々あるが、受け身でいる事に飽き足らず、自ら運命を切り拓く、強い意志と力を持つ者だけが、ゲームを選ぶ。その中でも、最高の環境と真剣さを求める者が、ゲーセンに足を踏み入れるのだと思う。例えばコンシューマーソフトの場合、決まったお金でソフトを買ってしまえば、1プレイ当たりの単価はどんどん下がっていく。アーケードは違う。注ぎ込んだコインの数だけ、思い入れは積み上がってゆくのだ。それに、どんな困難に遭っても、挫けずに腐らずに前進すれば、道は開けるという事も、レイフォースは教えてくれた。向上心がなければ、ゲーマーであり続ける事はできないのだ。
 
 向こうの世界を現実と等価に見るまで、のめり込むつもりはない。そんな事をしたら、何百回「彼女」を死なせてしまっただろうという、罪悪感で潰れてしまう――。だからといって、たかが娯楽と開き直って「遊ぶ」気も毛頭ない。その度ごとに、自分がその辛さに耐え切れなくなるギリギリの所まで、「彼女」の存在を感じながらプレイしたい。本来「彼女」に、残機もコンティニューもありはしないのだから……。
 
 27にもなって、勉強はとうにやめて仕事にも慣れて、学ぶ事などないと思っていたのに、ゲームにこれだけの経験をさせてもらっている事は、驚きであるとともに大きな喜びでもある。それに、青春と呼ばれる時期を、アニメに完全燃焼して通り過ぎて、何かに真剣に情熱を燃やす事など、もうないはずだった――自分にまだそれだけのエネルギーがある事を、強く戦っていける事を、自分がゲーマーである事を、私は、誇りたい!! また、私をこの世界に呼び寄せてくれた友人たちに、ありったけの感謝を捧げたい。ゲーマーの弟、諦めないで挑戦してみて、と励ましてくれた M.M さん、2人同時プレイをさせてくれた M.N さん、熱い作品を読ませてくれた、パイルバンカーさんをはじめとする、投稿者の皆さん……私の大切な仲間たち。
 
 精進の甲斐あって、ランキングのトップにも立てるようになり、今(94年9月現在)3面から4面にかけて戦っている。残り時間はいつまであるだろうか……? 仮に最後まで行き着けたとしても、悲劇が待っている事を私は知っている。それでも自らの想いを燃料に、仲間の支えを補助動力にして、力の限り私は飛び続ける。X-LAY の翼で、「彼女」の生きる世界へ。1秒でも長く、1センチでも遠く、その先のレイフォースへ。
 「左利きのレイフォーサー」の挑戦は、ゲーセンにレイフォースがある限り続くはずだ。
 
〈おしまい〉
 
P.S. 原稿用紙フォーマットにして15枚。あ―――あ、収まらねえはずだわ(笑)。
 
追記:
 この文章は、懸賞論文応募直後に、「やっぱり制限枚数内には収まり切らない!」という不満から、字数に糸目を付けずに書き直した、「本当はここまで書きたかったんだバージョン」ともいうべきものです――。

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